◎完璧とミスの狭間で
物語を書く際に、この人物にどれだけ誤りやミスを起こすか、という頻度の問題がある気がする。
ミスが多すぎると、
ストーリーは迂回が多くなりテンポを崩したり、キャラが必要以上にバカっぽく見えたり、空気の緊張感や凄みが減ったりする。
反対に無さすぎると、
テンポはスムーズだがスムーズ過ぎて山が出来ずにメリハリが生まれない、完璧すぎて共感しにくい、超人たちの空間には現実感はあったもんじゃない。
バランスの問題だと思うけど、必要以上にミスを犯すような作品は、どうもイケテナイ気がする。
野球やサッカーで塩試合と呼ばれるものは、エラーを繰り返したりする。
接戦と呼ばれるものでも、緊迫した試合と野次が飛ぶ泥仕合の間にあるのは、
名プレイの連続と言うよりも、ミスやそれに連なる拙さの頻度によるものじゃないだろか。
でも、そのミスの減っていく過程こそ「成長」を描くことにもなるわけで。
ミスさえも微笑ましくなるキャラというのも確かにいる。
完璧なキャラと言うのは実は書きやすいように見える。ミスさせなければいい。
むしろ、如何に間違いやミスを効果的に配置するか、説得力を持って提示するか。
そこにテクニックが求められるように思う。
だから大事なのは、間違いというのは必要だけど、その間違いの「質」「性質」に気を付けること。じゃない?_
「如何にミスを書くか」という視点。これを視点の中心に。
◇ディーン・R・クロンツ「ベストセラー小説の書き方」 P157
4)相次ぐ困難は決して登場人物の愚かさに起因してはならない。
もちろん主人公が欠点を持つことは構わない。
むしろ、主人公を釣り合いの取れた、いかにもどこにもいそうな人物にするためには、欠点の一つや二つ持たせなくてはならない。
たとえば彼は美人に弱くて、そのために、、すごいブロンド美人が殺人鬼であったことに気付かないとか、
あるいはオッチョコチョイだとか、せっかちであるという具合にだ。
彼がその性格ゆえにいろいろなあやまちを犯すのはかまわない。
が、彼が愚かすぎて先を見る目がなかったために、困った事態に陥るというのはいただけない。
もしもトムが、殺人鬼が待ち受けているのを知りながら、武器も持たず、不用意にどこかの部屋へ行ったとしたら、
彼は何をされても仕方がない。
読者はそんな主人公を心配してやる気持ちを失うだろう。
◇バトルにストーリーで動きをつけようとすると。
1 知略の上に知略を重ねる。力の弱い主人公が、知恵を使って、強敵を倒す。
策略のぶつかり合い。裏をかき合って、敵も賢かったりする。
2 ミスが勝敗を分ける。力の弱い主人公が、相手のミスを助けとして、強敵を倒す。
迫力あるバトルを書こうとしても、2を基本としてしまうと、悪例に近い共感の薄いものになってしまいそう。
一見、絵面は1に近いから面白そうに見えるのだけど、読んでいてどうもスピードや緊迫感のないものはこういうのが多い気がする。
相手も味方も「しまった」(或いはそう置き換えれるセリフ)ばかりを連呼するようなバトルは、ちょっと危険な気がする。
ただ、2も使いようによっては、面白みを生む。ただカタルシスのあるエンタメ方向とは違うもののように思う。
休憩
なんか抽象的だな。中傷していいよ。
ここから具体例を出しながら、もう少し切り込んでいくつもり。
JOJO
AA FANTASY
ヒカルの碁
月の砂漠をさばさばと
クレヨンしんちゃん
あたりを取り上げようかって。
野暮用があるので、続きは夜にずれこみそうだけど。ゆらりと行きたいです。あせると凡ミスが増えるからなーん。
>ミス
最近だと「プレイボール2」がミスに至るまでの心理や状況の描き方が上手くて、
なるべくしてそうなるみたいな説得力がある
◇ミスを受け入れる、或いは正す基準、そこに作家性が出る気がする。「月の砂漠をさばさばと」に思う。
この二つの花王とワンニャン大行進の誤り、お母さんは笑いながら聞いていて、特別に正そうとかもっと注意して聞いてとか言わない。
温かく見守るような、ミスを楽しそうに受け止める姿に、なにか和み、情と言うのを感じる。
ただ、そのお母さんとさきちゃんも同じエピソード内でこうやり取りする。
「あ、あの子、確か幼稚園が同じだったわね」
「うん」
「一つ上だったよね」
「ありさちゃん」
「そうか。どんな字……書いたっけ?」
「《あ》はね、えーと」
さきちゃんは、知っている漢字を頭の上に並べてみました。そして、答えてみました。
「―《悪魔》の《悪》の心のないやつ」
お母さんはちょっと困って、
「《あ》は違う説明をした方がいいよ」
「どうして」
「うーん。やっぱり失礼だろうねえ」
「じゃあ、何て言ったらいい?」
「《亜細亜》の《亜》かな」
「《アジア》は《カタカナ》だよ」
「……そうか」
確かに、小学生には説明しにくい字です。
つまり、聞いていて周りを笑わせたり和ませたりする「間違い」は暖かく受け止められるが。
お母さんは、本人が聞いたら傷ついてしまうような種の「間違い」は正そうとする。
正そうとするあまり、子供には難しすぎる例えを使ってしまうという「間違い」をお母さんも犯してしまう。
でも一見コミカルに思えるところに、なあなあの依存関係を超えた、娘を陽の方向に導き育てようとする母子の関係が透ける。
ように思う。
つまり、何かに失敗したときに、失敗そのものだけでなく、それがフォローされるか、打ちのめされつつも立ち上がる意思を見せるか、
さっと流されるか、或いは使い捨てられるように忘れられるか。
そういうところに、間違いを犯した人の思考描写以外にも、他のキャラのリアクション、作中の出来事などを通して、
見せられる様々な波紋、
そこに作者の目線が出るし、好ましい作品と言うのは、そこらへんを凄く考えて、キャラクタがミスをした後に全力を費やしていく。
ものじゃないんかなー。ちょと怪しい。
233 :( ´∀)・∀),,゚Д)さん:2014/02/14(金) 20:31:51.83 ID:x2qsFg+w0 .
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< 皮はおっきくね。 >
< フライパン一杯になるまで >
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| 人の話、聞いてる?
| まあ、いいや、ほいさ
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ジュッ!
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(/(/ と ∞つ ヽ Jヽ)ヽ)ヽ)
U U .| |
|二二二二| U`J
子供のキャラは、言い間違いや聞き返し、ちょっと言葉や会話がおぼつかない描写を入れることによって、
かえって「らしさ」が出る気がする。
ここではパティシエという用語や設定の説明にワンクッション置くような形として。うーん。後付けだな。